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昔も今も変わらない道理

 

天正8年(1580年)に、浄土真宗の十一代目門主の顕如は、それまでの長い戦いの日々に終止符を打ち、信長に和睦を申し入れた。顕如の長男である教如は、そんな父親に反発し、親子は袂を分かつことになった。そして、このことが、のちに本願寺が西と東に分裂する端緒となった。

やがて、信長も秀吉もこの世を去った。そして、最後に残った家康は幕府を開く。あるとき、家康は側近の本多正信に、『長く分裂したままの本願寺を、今後どうすればよいか?』と訊ねた。すると、正信は、『あのままで宜しかろうかと存じます』と答えた。

本願寺が一つにまとまれば、その勢力は強大なものになり、かつて信長を散々に手こずらせたように、家康に歯向かって来るやもしれない。そうなれば、せっかく築いた泰平の世が、再び戦火に晒されることとなる。本願寺が西と東に分かれて、お互いに反目しあっているうちは、そのような企ても考えることはないだろうという、家康の家臣の中でも随一の知恵者・切れ者と言われた、いかにも正信らしい進言だと言われている。

しかし、三河一向一揆の際に、家康に門徒の一人として敵対した正信を考えるとき、単純に〝お家大事〟の一念で、先の発言をしたとは思えない節もある。

西本願寺は、分裂後から、門徒の間で〝本派本願寺〟と度々別称で呼ばれるようになった。(何を以って〝本派〟とするかは専門家に譲るとして)門徒(信仰者)の一人である正信としては、その〝本派〟としての流れを汲む西本願寺が、東本願寺と一つになることを快く思わなかったのかもしれない。現在、本多正信の墓所は西本願寺にある。

 

かつては、一つにまとまっていた民族が袂を分かつことになり、今は二つの国に分かれて、お互いに反目しあっている。いずれは元の鞘に収まるのか、このままの状態が続くのか。すぐ隣の国とはいえ、日本人の自分には彼らの心情は推し量れない。国が、ひとたび戦(いくさ)ということにでもなれば、一番に災難をを被るのは国民であり、その火の粉は周辺の国々にも飛んで来る。それは昔も今も変わらない道理であり、誰もが避けて通りたいと願う。