紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ

SLASH METAL⚡ GARAGE OFFICIAL BLOG

短いのは、小さいのと同じ。

以前、バイト中に同じ職場の人間を殴った話*1をツイートした。あれを読んだ大多数の良識のある人間は、こう思ったことだろう。

『お前もそんな時期があったのかよ。けどよかったな。お前がどんな形であれ、なんとかここまでお天道様の下で生きてこれたのは、その時お前を羽交い締めにしてでもなんでも必死で止めてくれた人間がいたからだぜ。感謝しねえとな』と。でも、〝メンツを潰されたなら当然だ。よくやった〟と言う人間も中にはいる。

前述の件のあと、〝このままじゃやばいな〟と自分自身のことを真剣に考えるようになった。同じ職場の別のヒトが借金まみれになった挙句、真冬の道端で文字通り野垂死にしたことも、俺が将来のことを考える理由の一つになったかもしれない。そうして考えた結果、俺はバイト生活に見切りをつけ、家を出ることにした。

それから数ヶ月後、落ち着き先も決まり、そろそろ地元を離れようかという時期のことだった。あのバイトの際の喧嘩の仲裁に入ったヒトが、一升瓶をぶら下げて、ふらっとウチに訪ねてきたことがあった。(そのヒトはうちの家族とも付き合いがあったため)形の上では、親父の顔を久しぶりに見たくなったとかなんとか、そういう体だった。だが、恐らくあれは、俺の様子を見に来たんだろう。俺が家を出て就職することを飲みの席で親父から聞き、そのヒトは、ほっとしているようだった。

 中学の時の喧嘩で同級生に刃物で切りつけられたことがあった。先に手を出したのは俺で、相手は相当に頭に来ていた。物の弾みというのは、恐らくああいうことを言うんだろう。〝どうせハッタリだろう〟と高を括っていた俺は、太腿に10数センチ以上に渡る傷を負った。幸いにも、それほどの深傷でなかったが、学生ズボンは裂け、見る見るうちに傷からは血が滲んだ。切りつけてきた当の本人は、俺の姿を見てショックを受けたらしく、その場に呆然と立ち尽くしていた。自分の世代は、どちらかが血を見たら双方が手を引くと言う暗黙のルールがあった。動かなくなった相手を執拗に殴り続けたりはしない。

まだバイト生活を続けていた頃、家から離れた場所の自販機でタバコを買い、徒歩で帰る途中のことだった。当時は家の近所にコンビニはなく、自分のクルマも持っていなかった。(マークIIかクレスタか、忘れてしまったが)白いセダンが後ろからゆっくり近づいてきて、助手席の窓が開くと、聞き覚えのある声でドライバーが自分に呼びかけてきた。あの、中学の時に揉めた同級生だった。

『送ってってやるよ。乗っていかないか?』

『おう、そうか』

車中でやつと何を話したかはほとんど覚えてないが、その時俺はこう思った。〝ああ…こいつもあの時のことは悪いと思ってるんだな〟と。今でも傷痕は残っているが、それでも、あれから何十年という時間が経ち、当時のことを思い出す回数もずいぶんと少なくなった。

 〝昔はヤンチャやってました〟と自ら口にする人間は昔から好きにはなれない。若い頃にバカをやっていた人間が、さも自分が今は大人になったと言わんばかりの厚顔無恥ぶりが鼻持ちならないからだ。人間の中身などは、そうそう変わるわけがない。ただただ痛い目に遭い、その分だけ世ずれて知恵をつけたにすぎない。でも、それでいいのだと思う。形だけでも大人のふりをしていれば、そのうちそれが自分の顔になってくる。

 ホットロードも。バクファミも。最後は、自分が責を負う。漫画『キリン』に登場するモヒは、店を燃やされても報復することはついにしなかった。全てはフィクションの世界ではあるけれど、ヒトが争いになった時にどちらか一方が引かなければ、行き着く先には双方に破滅しか待っていないことを教えてくれていたのだと思う。今にして思えば。

〝短いのは、小さいのと同じ〟

俺も御多分に洩れず世ずれているうちに、すぐカッとなる自分を抑える術が昔に比べれば身についてきたのか。いつの頃からかそう頭の中で唱えている自分がいる。気が小さいから自分を相手に強く大きく見せようとして吠える。気が短いのは、気が小さいのと同じことだと。

 

 

*1:自分が二十歳の頃。今から約三十年ぐらい前のこと。