紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ

SLASH METAL⚡ GARAGE OFFICIAL BLOG

親父とお袋とバイク。

f:id:ghost_pain:20161222233542j:plainツイッターにも以前に載せた、この写真。バイクに跨る親父は幾つぐらいだろう?タンクのエンブレムから察するに、メーカーはヤマハだろう。『あのころのバイクの主流は、2サイクルの250ccだった』と、親父が言っていた。それにしても、首にはスカーフをアスコットタイ風に巻いてるが、田んぼに行く長靴を履いてるっていう…格好つけてる割には、出で立ちがどこかアンバランスだ。

 

日本が終戦を迎えたのは、親父が11歳のときだ。戦争中、庭から空を見上げてB29が編隊を組んで飛んで行くのを見た親父は『「この戦争は負ける」と確信した』と、いつか俺に話してくれたことがあった。その後、新制中学を卒業した親父は高校へ進学したいと爺さんに頼んだが、爺さんは『百姓するのに学問はいらん』と頑として譲らなかった。親父は思い悩んだ末に、爺さんに無断で地元の県立高校の普通科を受験した。結果は周囲の予想に反して(?)見事合格。反対していた爺さんも、いざ親父が受かってみると『やめろ』とは言えず、親父は無事高校を卒業できた。映画「ALWAYS-三丁目の夕日-」で、堀北真希が扮する星野六子が「金の卵」として自動車修理工場に就職するが、あの時代は中学卒業後に高校へ進学する人間は稀だった。昭和9年生まれの親父が高校に進学したのは、それよりもずっと前だ。当時は、まだ戦後の復興の最中で経済的に余裕のある家は少なかった。親父以外の高校の同級生のほとんどは、田舎でもとりわけ裕福な家庭の子女が多かった。

 

20代を迎えた親父は『次男坊の俺がここ(実家)にいても将来はない』と、家出同然に実家を出て就職。就職した尼崎の会社では起重機の免許も取得したが、しばらくして体を壊した。時を同じくして、実家を継ぐはずだった伯父が爺さんと反りが合わずに家を出てしまう。(親父が体を壊したのを渡りに船と考えたかは知らないが)爺さんは、神戸の伯母の家で療養していた親父を実家へ呼び戻した。爺さんが親父を呼び戻した頃には農業も斜陽に差し掛かっていた。*1 実家には帰ってきたものの、当時の田舎には就職先など望むべくもなかった。親父は人生の大半を建築現場で働きながら、俺たち3人の子供を育ててくれた。子供の頃は、仕事の「ハツリ」で使うノミを、親父が家で焼き入れしている作業をよく見たものだった。

 

 

f:id:ghost_pain:20161223020249j:plainこの頃には、俺はもうとっくに生まれていたとおもう。『跡継ぎが生まれるまでは髭を剃らない』と願をかけていた親父は、俺が生まれるまでのある時期、伸ばし放題に髭を伸ばしていたそうだ。この写真は、たぶん、城崎か有馬の温泉へ行ったときに撮ったものじゃないかな。こうしてみると、若い頃の親父はなかなかの男前だ。

 

f:id:ghost_pain:20170308204204j:plain

冒頭の、親父がバイクに跨る写真と同じ庭の前栽で撮ったものだ。腰掛けてるのは、お袋だ。親父と同じく、上着と履物が見事に合ってない。(元の画像に加工を施したが)お袋の顔が険しい(笑)。お袋が嫌がるのを、親父が無理を言って撮らせたものかもしれない。家にカメラがあるのが珍しい時代だったし、冒頭の写真も含めて誰かに撮ってもらったんだろう。

 

 『(何かあれば)死ぬことを覚悟して乗れよ』

 

 家の者に黙って中免*2を取ったのがバレたとき、親父は俺にそう言った。当時は、言葉通りの意味にしか受け取れなかった。あとから、母を介して聞いた話では、俺が福井や鳥取へバイクで遠出するようになってからは『まだ帰って来てないのか?』と、家族の誰よりも心配していたという。

 

ー 好きなものはやめられない。

 

親父は、俺に『バイクから降りろ』とは、最後まで言わなかった。俺のバイクを見るたびに『こんな長いタンク、わしの短い腕ではハンドルまで手が届かんわ(笑)』そう俺の前では軽口を叩いていた親父の気持ちが、今は何となくわかるような気がする。

 

 

 

 

今年は、親父の初盆になる。

 

 

 

 

 

*1:本格的な生産調整(減反政策)が始まったのは、昭和45年(1970)から。

*2:中型自動二輪免許。現・普通自動二輪。